"The choices we make dictate the life we live."――『勇気あるもの』(1994)
かつて見た洋画にこんなセリフがありました。落ちこぼれから奮起して勉強を始めた教え子。奨学金をもらって進学できるかもしれない――将来に希望が見えてきた矢先に警察ざたの事件を起こしてしまう。その知らせを聞いた先生は、自らに言い聞かすようにつぶやきます。「自分の人生は、自分が決めるんだ。」(直訳すると「自分が選んだことが自分の人生を方向づけていくのだ。」)
あなたは、自分の人生は自分が決めているのだという自信がありますか?
もちろん、人生の条件はいつでも自分の思い通りになるとは限りません。進学したいと思っても経済的に許されないこともあるでしょうし、就きたい職業があっても両親の反対に遭うかもしれません。自分の思う通りにならない現実に直面しすることもあるでしょう。そのほうが多いかもしれませんね。
しかし、そうした人生の逆境に出会ったときに「あきらめる」ことを選ぶのもまた、自分なのです。
社会心理学者のJ.H.ミードは、「自分(自我)」は、ふたりの自分が対話をして形づくられると言っています。ひとりは周囲の人や社会の期待が流れ込んで形成された「自分」(客我と言います)、もうひとつは、人間の内に生まれながらに存在する意志としての「自分」(主我と言います)。人間は社会的な動物ですから、自分の意志のままに主我だけで生きることはできません。周囲の人々や生きる環境とコミュニケーションを取る中で、周囲の期待を感じ、またそれに応えることによって社会の中で生きていくことができるのです。これが客我の自分です。青年期の課題のひとつは、このふたりの「自分」を統合するということ、すなわち、アイデンティティ(自己同一性)を確立することにあります。
ふり返るにわたしは青年期、多少の不満と疑問を抱きながらも母の敷いたレールの上を歩んできました。そのことをボーイフレンドに指摘されてはじめて、わたしの自分(主我)さがしが始まったのです。大学生活も半ばにさしかかる頃でした。意識的に自分で選び取るようになると、その選択の結果を「人のせい」にすることができなくなりました。けれどもその責任の重さのぶんだけ、ひとつひとつの選択に自分の人生を自分が決めているのだと感じられるようになりました。
わたしの自分さがしは母との対峙が必要でしたが、必ずしも両親との対決を勧めているわけではありません。もしあなたが両親の期待と異なる進路を望んで悩んだとき、両親を悲しませたくないという思いから両親の期待に沿った進路に進むことを選ぶかもしれません。大切なことは、自分自身の意志(主我)で決めたのだという自信をあなたが持てるかどうかです。
自分の意志で選択するということは、一朝一夕にできるものではありません。人生の大きな選択が迫る前に、日々練習を積み重ねましょう。さあ、今日の昼は何を食べますか?
(神谷純子)