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研究活動報告――著書『日本漢文学の江戸後期―知識人の自己表現―』の刊行――


2023年8月12日

汲古書院刊『日本漢文学の江戸後期―知識人の自己表現―』背表紙と外函

このたび、『日本漢文学の江戸後期―知識人の自己表現―』という著書を上梓しました。

私は長年、江戸後期の日本人の書いた漢詩文を中心に研究を続けており、「日本漢文学」という独立した一つの研究分野が存在して然るべきであると考えています。それは日本文学と中国文学との両方に含まれるような二重性を持ちながら、またいずれにも含まれない独自性を持つと考えているからです。

「日本漢文学」は日本人がどのように中国の文化を採り入れ、それをどのように独自の文化へ発展させてきたか、という命題を含みます。本書は特に江戸後期を取り上げ、日本人の手により、中国文学の形式を取って作られた日本漢詩文の内容と、そこに込められた作者の意識とを検討し、その作品の意義を考察したものです。

本書で取り上げた四名の漢詩文作者は、活躍した時期も場所も立場も異なっています。齋藤拙堂(1797~1865)は、地方藩の江戸屋敷で、あまり地位の高くない武士の家に生まれ、努力して藩儒の地位を得ました。賴山陽(1780~1832)は、広島藩儒の跡継ぎとして約束された身分を捨て、京という都会の市井で自由に後半生を生きることを選びました。山陽の父親である賴春水(1746~1816)は、竹原の紺屋兼医者の家に生まれましたが、父の期待を背負って大坂へ遊学し、後に広島藩儒となりました。その末弟である賴杏坪(1756~1834)は、長兄春水に次いで広島藩儒となりましたが、学問所勤め以上に藩の実政にも力を注ぎ、その働きが認められ、75歳で引退を許されるまで藩の業務に尽くしました。

この四名がその地位に就くまでの経緯や、漢詩文の創作に励む時期や姿勢は、それぞれ異なっています。本書では彼らが漢詩文という手段を用いてどのように思索し、どのように自己を表現していたのか、各人について論を重ね、更にその繋がりを考察しました。

(国際学部教授 直井文子)
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