東京成徳学園創立100周年コラム「100」―将棋の世界と100について―

私が小学5年生のとき、クラス内で将棋が流行った時期があり、それ以来、現在まで将棋が私の一番の趣味である。特に大学生の頃は将棋部に入り浸りで、その結果、大学将棋の各種大会における団体戦、個人戦ともに、ある程度上位の成績を収めることができた。
その将棋の世界で「100」という数字を聞くと、まず思い浮かぶのは「100手」や「100局」、あるいは「勝率100%」といった記録に関わるものかもしれない。しかし実際に将棋を指していると、100は単なる数量ではなく、時間や思考、そして人生の積み重ねを象徴する数字としても現れてくる。
将棋の一局は、短ければ数十手、長ければ200手を超えることもある。その中で100手前後というのは一つの節目である。序盤の構想が形になり、中盤の激しい攻防を経て、局面が大きく方向づけられる。そして、100手目の盤面にはそれまでの選択のすべてが凝縮されている。また、たった一手の判断ミスが50手後、100手後に致命傷として返ってくるのが将棋の怖さであり、面白さでもある。
将棋のプロ棋士にとっての「100」は、努力の単位でもある。100局指して、すべてに勝てる棋士はいない。むしろ、何十局、何百局と負けを重ね、その中からわずかずつ勝ち方を学んでいく。勝率6割でも一流とされる世界で、100%は幻想に近い。それでも棋士たちは、次の一局、そのまた次の一局へと盤に向かい続ける。
プロ棋士の木村一基九段がよく使う言葉に「百折不撓(ひゃくせつふとう)」がある。100回折れても、なお立ち上がる心である。敗局の数が100に達したとき、人はようやく自分の弱さを正確に知り、強くなる入口に立てるのかもしれない。100という数字は完成や到達を意味する一方で、未熟さを直視させる鏡でもある。
最近、将棋AIが人間を大きく上回る強さを見せているが、そこでも「100」は重要である。評価値が100点違えば形勢が大きく傾く。だが人間は、その100点の差を簡単には感じ取ることができない。だからこそ将棋は、理屈だけではなく、経験と感覚を総動員するゲームであるとともに、そこに至るまでの無数の選択を味わう文化ともいえるだろう。
2026年1月31日
執筆者
国際学部 国際学科
岩瀬 弘和教授
その将棋の世界で「100」という数字を聞くと、まず思い浮かぶのは「100手」や「100局」、あるいは「勝率100%」といった記録に関わるものかもしれない。しかし実際に将棋を指していると、100は単なる数量ではなく、時間や思考、そして人生の積み重ねを象徴する数字としても現れてくる。
将棋の一局は、短ければ数十手、長ければ200手を超えることもある。その中で100手前後というのは一つの節目である。序盤の構想が形になり、中盤の激しい攻防を経て、局面が大きく方向づけられる。そして、100手目の盤面にはそれまでの選択のすべてが凝縮されている。また、たった一手の判断ミスが50手後、100手後に致命傷として返ってくるのが将棋の怖さであり、面白さでもある。
将棋のプロ棋士にとっての「100」は、努力の単位でもある。100局指して、すべてに勝てる棋士はいない。むしろ、何十局、何百局と負けを重ね、その中からわずかずつ勝ち方を学んでいく。勝率6割でも一流とされる世界で、100%は幻想に近い。それでも棋士たちは、次の一局、そのまた次の一局へと盤に向かい続ける。
プロ棋士の木村一基九段がよく使う言葉に「百折不撓(ひゃくせつふとう)」がある。100回折れても、なお立ち上がる心である。敗局の数が100に達したとき、人はようやく自分の弱さを正確に知り、強くなる入口に立てるのかもしれない。100という数字は完成や到達を意味する一方で、未熟さを直視させる鏡でもある。
最近、将棋AIが人間を大きく上回る強さを見せているが、そこでも「100」は重要である。評価値が100点違えば形勢が大きく傾く。だが人間は、その100点の差を簡単には感じ取ることができない。だからこそ将棋は、理屈だけではなく、経験と感覚を総動員するゲームであるとともに、そこに至るまでの無数の選択を味わう文化ともいえるだろう。
2026年1月31日
執筆者
国際学部 国際学科
岩瀬 弘和教授